場所との出会い3

翌日から、ずいぶんと悩む日々が続きました。
思ったほどの家賃ではないにしても、4か月分の保証金と前家賃1か月分を用意するのは、会社にとってはなかなかの大金です。
また、事務所の移転登記や書店を始めるにあたっての事業目的の登記変更など、手続きにかかる6万円ほどの費用も考えておかなければいけません。

タイミングが難しかったのは、ちょうど東京商工会議所の経営相談を通して日本政策金融公庫から融資を受ける「マル経融資」というものを申し込んでいたことです。
移転のために融資を考えていたわけではありませんが、会社も設立5年を迎え「借りることも会社の信用づくりだよ」というアドバイスもあり、無理のない範囲で借りることにしたのでした。
さっそく移転を考えていることを相談員さんに話したところ、移転登記はもう少し先にしてからのほうがいいというアドバイスをもらったのです。
融資実行前に不要不急の行動は起こさないほうがいいという、非常に明快な理由でした。

融資のタイミングに合わせて、移転登記を先延ばしにするのであれば、神田錦町のシェアオフィスの家賃も並行して払わなければいけない。
そうすると、いちばんの問題は家賃の二重発生です。
融資の実行だけでなく、取引先への住所変更案内、税務署や社会保険事務所、金融機関など関係各所への手続き期間を考えると、早くても年内の残り5か月程度は事務所を並行して借りておく必要がありそうでです。
そんなことを考え始めた途端、新たな事務所を借りる計画は一気にトーンダウンしてしまったのです。

気がつけば7月も終わりに近づいたある日。
携帯電話が鳴りました。大家さんでした。
「もう入居はお決めになりましたか」
わたしは転居のタイミングについて正直に悩んでいることを話しました。すると、
「もうお一人見たいという方がいらっしゃって、7月30日に来たいと言ってるんですがね……」

最後の決断をしなければいけません。
「一日だけ待ってください」
その夜は皮算用もアルバイトも何でもありで、電卓をたたき続けたのです。

場所との出会い2

その翌日から、ずっと大家さんにそれとなく話をしてみる機会をうかがっていました。
ふだんから自転車でよく出かけられている大家さん。いつも夕方になると創樹社美術出版のそばに自転車を停める姿をよく拝見していました。

しかし、こういう時に限って、姿をお見かけしない。
少しずつ焦りが出てきます。誰かに借りられてしまうのではないかと。
正直に、 ずっとお世話にっている創樹社美術出版の伊藤社長に話をしました。
「社長……、真上の部屋が空いているそうです。8.2坪で家賃は64,000円ほどなんです」
社長はその話を聞いて、驚くように言いました。
「えっ!! 家賃、うちよりずいぶん安いな……」
そしてアドバイスしてくれました。
「とてもいい大家さんだから、自分から話を聞きに行ったほうがいいよ」
わたしは恐るおそる3階の大家さんの住まいに伺いました。

大家さんは、わたしの顔を見てすぐに、ああ、いつも事務所にいるあの若造(実際そうではありませんが)と認識してくれたようです。
「上の部屋が空いているのを知りまして……」
話を伺うと、テナントさんがたまたま立て続けに退去して、現在、大きな部屋と小さな部屋の2つが空いているとのこと。わたしは小さな部屋だけをのぞかせてもらうことにしました。
鍵を開けてもらいドアを開けると、最近塗り直した白壁の、ペンキの匂いがかすかにしました。
長方形の部屋には大小窓が二つ。大きな窓の眼下には、サッカー通りを行き交う人も見えます。心地よい風が入ってきました。
<机を置くなら、景色が眺められるこの窓のそばがいいかな……>
すでにそんなことを考えてしまっている自分がいました。

「借りますか?」
不意に飛び出した言葉に、わたしはどきりとしました。
大家さんのいたずらな笑み。たぶん試されていたのだと思います。
わたしは旅と思索社という自分の会社を別にやっていて、その会社の事務所として借りようかどうか悩んでいることを素直に話しました。それから、遠慮がちに、ちょっと悲観的に聞いてみたのです。
「あの……、お店をやるのはやはり難しいですよね?」
「ああ、飲食店以外なら構いませんよ」

大家さんから意外な答えが返ってきたのです。 わたしは色めき立ちました。
「自分の事務所に本を売るスペースを作りたいのです。ときどきイベントなどもやりたいと思っています」
「本屋ですか? いいんじゃないですか? どうせそんなにお客さんも来ないでしょ?」
……うーん、悔しい! どころか、なんとありがたいお言葉!!
事務所としてしか使えないのなら<やっぱり>と思ってあきらめるつもりでいたのに、逆にすっかり背中を押されてしまったのです。
「ほかにも内覧に見える方がいらっしゃいますから、もしお借りになるなら早めにご返事いただけると……いつまでにご返事いただけますか?」

興奮冷めやらぬまま、伊藤社長に大家さんとのやり取りを話しました。すると社長が言ったのです。
「事務所の一部をうちの倉庫代わりに少し使わせてくれるなら援助してもいいよ」

さまざまなチャンスが一度に訪れるとは思ってもいませんでした。
なんだか狐につままれたような一日。その夜はすっかり飲みすぎてしまいました……(いつもか)。

(つづく)

場所との出会い1


今年7月の、暑いある金曜日の夕暮れ。
仕事も落ち着き、そろそろ飲みの誘いでも……と思いながら、わたしは長年お手伝いしている湯島の古美術月刊誌『小さな蕾』の版元・創樹社美術出版の事務所で気だるそうにネットサーフィンをしていました。

見ていたのは、テナント貸し物件の検索サイトでした。
ずっと、人が集まれる場所がほしいなあ……と思っていたわたし。
実際、 昨年暮れには 問い合わせをきっかけに親切にしてくれた神保町の不動産業者の方に相談し、いっしょに手ごろな物件を訪ね歩いてみたこともありました。

希望は、「事務所を兼ねたミニイベントのできる店舗可物件」。
無知なわたしは、事務所を店舗として使うのはハードルが高いということをそのとき初めて知りました。
店舗物件と事務所物件では条件がまったく異なるのです。オーナーも簡単には貸したがらない。
当然、手ごろな物件はそうそう見つかりません。 気に入ったものがあっても、とても保証金や家賃など支払える額ではありません。しかも内装はすべて自腹です。

やっぱり夢のまた夢。わたしはすっかりあきらめたつもりでいました。
―― でも、やっぱりあきらめきれなかったのです!
すぐには実現が難しくてもいつかは……そう思いながらときどき、ふと、自分を勇気づけようと思って物件を探していたのでした。

いつものようにテナント貸し検索サイトの画面をスクロールしていると、一瞬、「清水ビル」という名前が目に入りました。
はじめは気にしていませんでしたが、少し経つとなんだか気になってきます。
再びページを戻って住所を見てみると、文京区湯島。もしやと思い、詳細を見てみると、なんと創樹社美術出版が入居している1階部屋の真上ではありませんか!
外に飛び出し2階を見上げました。いつの間に空室になったのだろう……。
そこには、明かりのつかない薄暗い窓が、ぽつんと顔をのぞかせていたのです。

家賃は共益費と消費税を含んで64,000円弱!
広さは1階とほぼ同じような感じです。
広くはないけれども、わたしにとっては身の丈のちょうどいい大きさに感じられました。
突然、わたしの中にむくむくとした気持ちが込み上げてきました。
なにかが始まりそうな、そんな気がしたのです。

ほんとうに不思議な出会いでした。

(つづく)